昭和45年1月18日
特別奉修委員に対する初代親先生の御教話
只今御祈念にかからせて頂く前に、熊谷さんがお取り次ぎをされます中に、人間は万物の霊長だと言われると同時に、人間は感情の動物だとも、また申しますと言う御届け、内容のことは申しませんけれど、そういう事を、まあ、冒頭に仰る訳です。確かに人間は万物の霊長であると同時に、感情の動物だと言うことですよね、そこで、人間はね、感情の動物終わったら、もう、他の動物と大差は無い、ですから、万物の霊長であるから、万物で道理に合う信心をせよとこう仰るですからね、万物を見て、道理に合う信心をさせてもらう。
そこからね、私は本当に人間は万物の霊長としての値打ちがある、段々、段々、出来てくるのじゃないかとこう思うのですね。
そこでですね、私は今日皆さんにこれだけは、ここん所に焦点を置いて、精進させてもらわなんならんと、今日の信心は合縁奇縁と言うことについても、機縁、心の縁という事についてですね、いわえる、心行と言うことですね、心の行と言う事、只ここの行にいつも取り組んどかなければならないと言う事ですね。
心の行に取り組む所から、なるほど感情が出ますもんね、その感情が有難い物になる、ならせて頂くんです。最近その事を私は、あの、心の上に自分の感情が、まあ、本当に信心させて頂いとって、どうしてこういう感情が起こるだろうかと、ね、腹立ちとか、または、痛ましいとか、羨ましいとか、惜しいとか、欲しいとか、まあ、あざましい限りの感情が動きますよね、そういう時にですね、そういう時にどういう、心行という物はどういう事を思わせて頂いたら良かろうかと思わせて頂いたらね、親先生と頂きました、あの、こうして、あの、ね、親先生と御届け来た事があるでしょう、ここの方達、ここん所ば頂くのです、『親先生と』親先生の事を・・・。皆さん、私は体が弱いから( ? )願うて下さるな訳なん・・・、ね、だから、願うておると言う事はね、もう、絶対願われてると言うふうに通うんですよ、ね、私共が神様に願うと言う事はね、神様から願われておるんです、私共は。
だから、親先生の事を願っておるその度合はね、その度合にも、また、それこそ、嫌な人、思い出の親先生の願いというものがお互いに頂いておるんだと、親先生ということは、私、その、先生と言う事は、先に生まれると書いて先生と読むし、親という字は、木の上に立って見ると書いてあるのが親だとこう云われておりますがね、親の思いという物はですね、私共が願うておるそんな事じゃないということです、私は、その、本当にそれをね、実感する事はいつも変わるのですけれども、それこそ、( ? )今月はどうも無かったです、私は本当に何も無かった、それがね、もう、段々日にちが立つに従って( ? )じゃろうかと思うごたる、うん、これは、やはり親の情じゃないかとこう思います。
本当に難儀な子供がおる、家出でもしておる、毎日に、もう、あげなん奴( ? )しとるけんで、あげんなんごつには思わんっち、言や、言うほど思いが募ってくるようなもんです、それこそ、ひょっとして、帰ってだんきよらんじゃろうかと、それこそ、夜中に( ? )ち言うても、( ? )思う、心の動きと言う物がね、その親だと。
木の上に立ってみる、もう、この子は帰ってだんきよらんじゃろうかと思うて見る、それが親だと言われております、親と言う字はそういうふうに書いてあるですね、そう言うたから、親のことを願うと言う事は親から願われておる、その親から願われておると言う事はとても、私共が願っておるその事ぐらいの事じゃないと、ですからね、あの、言うなら、私達の場合はこんな汚い心が起こっておる、こんな場合、教祖様ならどのように思われたじゃろうかと言う事なんです、ね、ところが、教祖の神様の御教えには触れても、実際のその姿にも、その御信心にも触れておりませんからね実際は・・・。そこで、まあ、目の当たりに皆さんに感じられるのは親先生じゃないだろうかとこう思うのです。
だから、こげなん自分なこすか心が起こっとるとか、自分のこげなん汚い心が起こっておる時、こげん時、親先生ならどう思われるだろうかと、思うたらね、言うて良い訳なんです、ね、人間は感情の動物だと、なるほどそうです、けども、そう言う感情では万物の霊長として値打ちはいつまでたっても値打ちたる値打ちがなってこない、ね、万物の霊長を願う霊長としての値打ちを作って行く事が信心だと分からせて頂いたのは始めて、こういう感情で自分が暮らしておったのでは本当の信心を知る価値にならないと思わせて頂くならですね、どうでも一つ、私はその時に親先生ならこげなん時、どげん思いやさるじゃろうかと、という事を私は思われたらそれがいくらか緩和してくる、親先生が完璧とでは決してないのですけれども、まあ、そう言うふうにですね、自分は少し生まれた、信心が先に少しで進んでおる人の事を思うたら、こんな思い方じゃはいけないけないとすぐ心から清まっていくおかげを頂く、それが万物の霊長の値打ちと言う物を作って行くということはそういう事じゃなかろうかとこう思うですね、吉富さん久富国雄さんがお届けをされるように、いわば、寒いのに冷たい思いをして( ? )もう、どこから沸いてくるか分からんですけれども、先生、もう、( ? )不思議な事じゃあるね、この冷たい野菜、この冷たい野菜をお供えさせてもらっておる事がです、そんなに有難い、もう、それこそ、久冨さん( ? )頂きなさった「麻酔」ですよと、いわえる、真の道と頂かれた、この前久富産が頂いちゃるんですよ、ね、例えば、私の場合、昨日告別式の時にはその麻酔に掛かっとった訳です、言うなら、医学で言う麻酔です、けど字では真の道と書いてあった、だから、麻酔に恵まれておる時にはですね、もうどうしてこんな有難い心が起こってくるじゃろうかというものが頂けるのですよ、ですからこういう汚い感情、人間の感情の動物 ( ? )起きてくる事は、今、真の道から外れておると言う事をまず悟らせてもらってですね、金光様、親先生がそこに必要じゃなかろうかと、そして、親先生ならとこう思わせてもらうような、それが必要じゃないだろうか、ね、一番有難い事は、いわえる、( ? )からこの冷たい中に、この寒い中に、この冷たい仕事をさせて頂いとる事がですたい、熱い涙が込み上げてくるように有難いと言う・・・。そういう時にはね、もう完全に麻酔に掛かっておる時だ、ね、本当にお恵みの中にあることの喜びがですね、もう、ここに一杯に広がッとる時ですから、しるしい事がしるしい事じゃない、腹のたつ事が腹の立つことじゃない、ね、汚い心どころか、はあ、これが神心じゃろうかと思うような心がつかえるときなんだと、そういうおかげを頂いて行く時にですね、その時に、ふーと思わなきゃならんことは、「親先生なら」と、汚い感情が出たら、いつもそれを思わせて頂いて、これを
( ? )、今お恵みの水に、自分は麻酔から外れておる時と思うてです、ここに金光様を唱え続けなければならない、そこに万物の霊長としての値打ちがです、いよいよ磨き上げられる、磨きだされてくるんだと思うんですよね。
どうぞ。